GHOST

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 ほどなくして最上階に着いた。
 他の階はいろいろな店が合わさっているものの、6Fは全面が書店となっている。
 いつものように、文庫本のコーナーへ。立ち読みでほとんど読みきった作品のラストを読もうと一直線に向かう途中、新刊コーナーで歩みは止まった。
「向坂くん?」
 見知った猫背を見るなり、自然と言葉がついて出た。
 ダッフルコートを着たままの背中が軽く伸びをしながら、「あれ、上田(うえだ)っちじゃん。お早う」上半身だけで振り返った。重そうな一重瞼をぱちぱちさせて、なんとか目を開こうとはしているようだけど、随分と眠たげに見える。
「お早うって、もう3時すぎだよ?」
「んあー、そうだったっけ。……で……か、じゃあ、…………。ああ、そっか、そうかもなぁ」
 額を掻いて、何かを思案したような間の後自分だけで納得してそう言った。間にごにょごにょと言葉は続いていたけれど、私には意味が不明な宇宙語にしか聴こえない。
 向坂くんと話すのは、算数に似てる。間違っても理路整然とした数学ではなかった。しかも、出てくる解は彼自身にしかわからない。ようするに、説明がない。途中の式は平気ですっ飛ばすものだから、解き方が全くわからない。タチが悪いことに、自分が納得してしまえば、間の説明を人にすることは決してしない人だった。自分で一端答えがでてしまえば、それでいいとばかりに。
 予備校で同じクラスではあるものの、私は彼が少し苦手だった。
 ずっと丸めている背中はなんだか不潔に思えたし、何より大して話したこともなく親しくもないのに、私の名前を上田っちなんて奇抜な呼び方をするところも気になった。
 後にも先にも、そんな呼び方をしたのは彼だけだ。
 予備校が終わってから早2時間強。家が近いわけでもない彼がまだ駅前に残っていることに驚いて思わず声をかけてしまったものの、話す話題が全くないことに気付く。
 きまずい空気が流れて――もっとも、彼は何も感じていないだろうけど――、そのまま挨拶をして立ち去ろうとした時。
 向坂くんの目が珍しくまんまるになっていることに気付いた。視線はそのまま、私の右手に向けられている。
「それ、何?」
 ずいと一歩、私の方へ前進してきた。圧倒されて、私は一歩後ろへ下がる。
「これ?」
 念のため右手を彼の目線まで上げひらひら揺らすと、向坂くんの頭も上下に揺れた。答えは返ってこないけれど、どうやら間違いないらしい。内心早く立ち去りたいと思いながら、「ムエットだよ」意図したよりもさらに言葉は投げやりに響いた。
 気にした様子もなく、「ムエットって? 何なの、その細長い紙切れ?」向坂くんは私の指の先で揺れるものに夢中だ。
「香水をね、こう……」左手でスプレーを吹きかけるジェスチャーをしながら、「吹き付けて、香りを確めるのに使う紙」
 向坂くんの表情がまた一段と生き生きしたものに変わる。
「香水? 上田っち、香水なんてつけるの?」
 また一歩、大きく足を進めた。私は半歩、後ずさる。
「うん、まあ」
「どうして紙に香水なんてかけるんだ?」
 こっちが逃げたがっていることには全く気付く様子もなく、向坂くんはどんどん歩を進めている。
 何でもかんでもどうして、どうしてで返ってくるもんだから。頭の中に、甲高い声のふっと甲高い声の赤いモジャモジャが浮かび、思わず軽く吹き出した。赤モジャの正体は、セサミストリートのエルモ――黄色い団子っ鼻のモンスター。好奇心の固まりで、自分の分からないことがあると質問攻めにしてくるところは、今日の向坂くんにぴったりで。ああ、いつもの眠気を感じさせない見開かれた丸い瞳も、なんだかそっくりに見えてくる。
 不思議なことに、彼に対する苦手だという感情がふっと消えてゆくのが分かった。
 こちらが笑いを堪えているのには構いなしに、向坂くんは「どうして」を繰り返している。このまま答えなくても、きっとお得意の自己完結で何らかの答えは見つけるんだろうけど。
 私は少しだけ、この状況が楽しく思えてきた。
「そのまま肌につけてもいいけど、それじゃ苦手な香りだったとき困るでしょ」
「なるほど」
 持っていた文庫本に構いなしに腕を組み、興味深げに頷いた。
「それに、自分につけると他の香りは楽しめなくなるからね。だから、こういう細長い紙に吹きかけて試すの」
「でも、上田っちバッグ持ってるだろ?」
 腕を解き、大きく振りかぶり左腕にかけたトーとバッグを指差してみせる。
「? そうだね」
「どうしてしまわないんだ? 本屋では邪魔だろ?」
 彼の言葉の意図を理解し、私は頷いた。
「ああ、でもね、香水って香りがどんどん変わっていくのね。だから、しまっちゃったらと途中の香りがわからなくなっちゃうんだよ。なんだか勿体無くってさ」
「はー、へー、ふーん。……面白いんだな、香水って。匂い、嗅いでもいい?」
 いいよと言うよりも、ムエットを差し出すよりも早く、向坂君は身を乗り出して、鼻を私の指先に近づけた。
 伏せられた睫毛は意外に長くて、心臓が大きく跳び跳ねる。
「融けかけのアイスクリームを粉っぽくした感じだな」
 すぐに上半身を元に――といっても猫背だけれど――戻したものの、私の鼓動は加速度を増してゆく。
「そう?」
 平静を装い、ムエットを鼻に近づけたものの、何の匂いも感じられなかった。
 向坂くんの正面にいるのが急に気恥ずかしく思え、視線を逸らすことしかできない。
 顔が、特に耳たぶが暑かった。
「いや、それとも……か、いや、…………だろ。待てよ……か。あ、そうだそうだ」
 向坂くんの自己完結な宇宙語が、私の耳を独占する。他の全ての音を奪って、捉えて離さない。
「……なんだ?」
 それが質問だと気付いて、顔を上げる。「ごめん、聞いてなかった」勿論、少し向坂くんから視線を逸らすのを忘れずに。
「なんて香水なんだ、ソレ」
「GHOST」
「ごーすと。ふうん、なんか縁起がいい名前だな」
 聞き間違いかと思い、顔を上げる。思いの他視線がまっすぐに合ってしまったことに戸惑いつつ、それでも逸らすことはできなかった。
「縁起がいい? 幽霊だよ。悪いの間違いじゃないの」
「や、ghostにはわずかな可能性って意味もあるからさ。少しだろうと何だろうと、受験生にはぴったりだろ」
 言い切った向坂くんの笑顔は清清しいもので、ハッと目が醒める思いだった。
 私が今ここに居るのは、勉強をする為。二度と後悔しない為。
 だのに言い訳をみつけては、勉強をすることを厭い逃げてきた。
「じゃあ、私帰る」
「ん? どした?」
「勉強しなくちゃ。……もう遅いかもしれないけど」
 向坂くんは首を傾げてみせる。
「遅いも早いもないんじゃね? やるって決めたら、そこから精一杯やればいいんだから」
 たった少しでも可能性があるうちは、諦めちゃいけない。
 ムエットから仄かに香るゴーストに、それから向坂に、背中をぽんと押された気がした。
「ありがと」
「? よーわからんけど、どういたしまして」
 私は向坂くんに背を向け、早足で歩き出した。



 ようやく、それが何の香りだったのか分かった気がした。
 温かく、時に冷たく。
 ゆるやかに、時に激しく。
 流れてゆく、風の匂い。
 下りのエレベータに向かいながら、私は確かに追い風の中に居た。



 向坂くんがどこの大学へ行ったのかは知らない。それ以前に合格したのかさえも分からない。
 それ以来予備校で会っても、差しさわりのない会話しか交わすことはなかったから。
 それでも確かに、私が志望していた大学に受かったのは、彼とあの時あの場所で出会ったからだろう。
 今はもう、思い出すことも少なくなった猫背を懐古しながら。少しでも針がずれていたら、恋になったかもしれないと思う。
 ムエットから幽かに香り立つ残り香は、向坂くんの面影を強く刻んでいた。






「そよ風の香り」のブリージー・フレッシュ・フルーティフローラル・オリエンタルノート。
トップ:ローズぺダル、アンブレット、シード
ミドル:ホワイトフラワー、ジャスミン、サンダルウッド、インセンス
ラスト:バニラ、ムスク、アンバー、アプリコット
定価は30ml 4000円、50ml 5500円、100ml 7500円。
まるで空気をまとっているように優しく、柔らかく包み込んでくれる。
はっきりとした形は無く、どんな女性でもその人の個性の一部のように調和する香り。





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ヒトコト

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